コンテナの形をしたカバン。

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可愛いカバンを見つけました!

JR貨物のコンテナをイメージして作られたコンナテバック。

A4サイズでつかい勝手もよさそう。そしてコンテナの様に丈夫そうです。他にもコンテ

ナボックスやパソコンケース、「鉄道ファンで知らない物はいない」と言われているそ

うですが、日本石油輸送のコンテナバックなど、鉄道が大好きな方から面白い物大好き

な方まで人気が出そうな面白グッズですね。

 

vvstore.jp

マスコミの為にプレハブを。

巨人で「名広報」として活躍してきた、香坂英典さんが昨年で定年を迎え、現場を去っ

たという記事を読みました。今後は球団事業本部付として新たな仕事ぶりが期待されて

います。この方、とてもカッコいい!


一時代を築き上げてきた有名な選手達の陰では必ず香坂さんが、マスコミとの間をとり

もち、選手の気持ちを常に1番に考えまた、近隣やマスコミの事にも配慮をくばり皆が

嫌な思いをしないようにしてきました。

素敵な縁の下の力持ち。清原ブームで大騒ぎだった時代には球場近くには何もなかった

場所に、プレハブを建ててマスコミが原稿を書くスペースとして提供したり、食堂もコ

ンビニも無い事からプレハブ内で特別にマスコミ用の食事を提供していたとの事。選手

からもマスコミからも信頼される香坂さん。勝手ながら相反する存在なのかと思ってい

ましたが、香坂さんがいらしたお陰で選手やマスコミとの関係も良い物になったのです

ね。

 

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www.tokyo-sports.co.jp

小さな4畳のプレハブ小屋から

 

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卒業シーズンが過ぎ、入学シーズンになりましたが、

小学生から中学生に大きな成長を迎えられたお子さんをお持ちの

お父さん、お母さん!

大切な6年間の思い出のいっぱい詰まったランドセル。

捨てないで!

 

ランドセルリメイク工房さんなら

役目を終えたランドセルからキーホルダーや財布などの

一生ものの一品ものにリメイクしてして貰うことが出来ます!

 

こちらのランドセルリメイク工房さんは神奈川県藤沢市の自宅の庭に

4畳のプレハブ小屋

を利用して営んでおられます!現在、納期の方が少々掛かってしまっては居るようですが、一生に一度の小学校6年間の思い出のためなら全然まっても構わないですよね。

そんなステキな工房にプレハブが利用されるのは非常にうれしいです!


 

 

【イマドキの仕事人】小学校の思い出、家族で一生共有できる形

 

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「ランドセルリメイク工房」の西川マサコさん
Photo By スポニチ
 小学1年生の真新しいランドセルがピカピカ輝いて見える新学期。ランドセルは6年間、一緒に登校する身近な存在だ。だが、卒業後は活躍の場がなくなってしまう。小学校生活の象徴といえる思い出の品を、普段から使える革製品に作り替える職人がいる。「ランドセルリメイク工房」を営む西川マサコ(35)を取材した。

 神奈川県藤沢市の自宅の庭に、西川の工房である4畳のプレハブ小屋がある。テーブルにはペンチやはさみ、きりなど、作業道具がズラリ。西川は革の素材を叩いて柔らかくしたり、金具を当てて穴を開けたり、手作業で加工を施していく。

 使っているのはランドセルのふた。「他の部分はしわや傷が残っていることが多い」ためという。解体後に金型を当ててプレス機で切り取り、財布やスマートフォンケースなどを作り上げていく。

 西川の他にはパートタイムで働く女性スタッフが6人在籍。この日は3人で作業を行い、「これでいいかな?」などと確認し合いながら手を動かした。思い出の品を預かっているからこそ「失敗ができない。何年たってもプレッシャーは感じています」。

 一つのランドセルから作ることができるのは、財布などの大きめの物と、キーホルダーなどの小物を組み合わせて最大5点。「子供にこれからも使い続けられる財布、お母さんとお父さんにはキーホルダーというように、家族で共有できるようにするのはこだわりの一つです」と話した。

 1日で作業できるのは平均でランドセル4個分。ほぼ毎日、午前10時から午後5時まで作業をしている。西川にも小学生の子供が3人おり「母親の気持ちがよく分かるので、“落書きを残してほしい”などのオーダーにもなるべく応じるようにしています」と笑った。

 学生時代はバンドを組んでいて「手芸や細かい作業には縁がなかった」という。「カバンやポーチを買うお金がないから“作ってみよう”と思って」約10年前に初めてレザークラフトに挑戦した。完成品をSNSにアップすると、友人から「自分にも作って」という注文が来るようになり、2013年に工房を運営する会社「SNAKER―革製品専門店―」を立ち上げた。

 ランドセルとの出合いはリサイクルショップ。「200円で売られているのを見つけて、“これも革製品だよな”と思って買ってみたのが最初です」。加工できることが分かり、インターネットで調べたところ「それをウリにしているところがなかったので始めてみた」と振り返った。

 始めて1週間ほどで数件の注文が届き、三越伊勢丹から提携の申し出もあった。「最初は反響が大きすぎて驚きました。それだけ需要があると実感しました」とほほ笑んだ。

 出来上がった商品を受け取った子供や母親から、手紙が届くことがある。「“今も使っています”とか“おばあちゃんが凄く喜んでくれました”とか、そういう反応が原動力になっています」とうれしそうに話した。

 リメークを求める声が多いことについては「“捨てるのはもったいないけれど、使い道がない”という声はよく聞きます。普段から使って、ふとした時に“これ小学校の時のランドセルなんだよ”って話せるくらいが思い出としてちょうどいい」と話した。

 断捨離やミニマリストといった言葉もあるように、現代の生活では使わなくなったものは処分されがち。そんな中で思い出の品を取っておくには、きれいにして保管するよりも、使える物に作り替えて大切にする方が合っているのかもしれない。思い出の形にも時代の変化があるのだと知った。 =敬称略=

 ≪注文殺到…2年待ち≫ランドセルリメークの料金は、送料込みで2万5000円。現在は800件以上の注文を抱え、約2年待ちの状態。そのため、ホームページには子供が小学校高学年の時期に注文してほしいという旨が書かれている。「早く届けたいという思いもありますが、大事なランドセルを預けてもらっているので、確実に作る方を優先している」と話した

 

 

www.sponichi.co.jp

日本人の優しさとそこ力。

凄まじい被害のあった東日本大震災

思い出すのもつらいはずが、忘れてはいけないと前向きに生きる人々のそこ力。そんな事を教えてもらえた様な記事がありました。

 

7万個の売上でカフェがオープン!

震災瓦礫をポジティブな製品に変えた「瓦Re:KEYHOLDER」
707 2013.12.20

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ものづくりからはじまる復興の物語

「ものづくりからはじまる復興の物語」は、東日本大震災後、東北で0からはじまったものづくりを紹介する連載企画です。「もの」の背景にある人々の営みや想いを掘り下げ、伝えていきたいと思います。
みなさんは、「震災瓦礫」と聞くと何を想像しますか?痛ましい震災の爪痕、進まない復興の象徴、全国各地での受け入れ問題…あまり良いイメージは持っていないのではないでしょうか。

でも、瓦礫の一つひとつは、かつて誰かの暮らしの一部だったもの。見方を変えれば、その土地の大切な思い出が詰まったカケラたちです。岩手県陸前高田市では、瓦礫をポジティブな製品に変えて販売し、地元の人の収入源を生み出すプロジェクトが行われています。

製品の名前は、「瓦Re:KEYHOLDER(ガレキーホルダー)」。震災の年の夏に生まれたこの製品は、2年で約7万個売れ、今年6月にはその売上で老若男女が集まるカフェもオープンしました。

本来だったら捨てられてしまうものが、現地の人の収入につながる

このプロジェクトの発起人は、北海道出身の中田源さん。中田さんは2011年7月、北海道のリフォーム会社「株式会社Hand Made」の復興支援担当社員として、陸前高田へ移住しました。中田さんは、何もなくなってしまった被災地に残された瓦礫の山を見て、「これを使って何かできないか」と考えたといいます。

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改装中のカフェにて、中田源さん

ベルリンの壁が崩壊したとき、地元のお土産屋さんが壁のかけらをパッケージングして販売していたそうです。本来だったら捨てられてしまうものが商品になる。それが発想の元となっています。

瓦礫に対する考え方は千差万別です。かつて誰かが大事にしていた宝物だったり、遺品だったりする一方、処理には時間がかかるし、いつまでもあると気が滅入る。だったら僕は、目の前の仕事を失った人の収入の手段として活用できたらと思いました。

でも、“よそもの”である中田さんが瓦礫を活用することに、抵抗感を覚える地元の人もいるかもしれません。中田さんは1か月ほど瓦礫撤去や物資の支給などのボランティア活動に専念し、地元の方と親しくなっていきました。毎日話をしていると、やはり仕事がなくて困っている人が多いことを実感したといいます。

「やっぱり必要なんじゃないか」と思い、地元のおばちゃんに「瓦礫を使って製品をつくることが地元の人の仕事になればと考えているんですが、どう思いますか?」と聞いてみました。そしたら、「いいんじゃない?」と応援してくれて、どんどん人を紹介してくれたんです。それが励みになって、まずはやってみることにしました。

市の建設課から許可をもらって瓦礫の山からカラフルな破片を拾い、高圧洗浄をかけて磨き、形を整えます。それを3枚重ねてキーホルダーにしたものが「瓦Re:KEYHOLDER」です。

 

「瓦礫」という言葉から受ける印象とは裏腹に、明るくポップな色使い。仕事を失った主婦や障がい者の方々が製作しています。

はじめの頃は否定されたこともあったそうですが、コンセプトに共感してくれた方々の応援もあり、全国で販路が広がっていきました。見た目のカラフルさからか子どもに人気があり、「お年玉を削って買いました」「ランドセルにつけています」と手紙が届くこともあるそうです。瓦礫を使ってフォトフレームがつくれる子ども用工作キット「瓦Re:きっとフォト」も開発し、好評を博しています。

まちをつくっていく時に必要なのは、様々な人が集まり対話できる場所

「瓦Re:KEYHOLDER」「瓦Re:きっとフォト」は、販売開始から2年で約7万個売れました。ひとつ10gなので、700kgの瓦礫を処理したことになります。売上から材料費や工賃などを払って残ったお金は、今後の展開のために貯金してきました。

そこで貯まったお金と助成金を活用し、今年7月、陸前高田の仮設商店街「再生の里ヤルキタウン」にカフェをオープンしました。

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震災から時が経った今でも、周りからはネガティブな話がたくさん聞こえてきます。仮設住宅での暮らしもストレスが溜まりますよね。陸前高田ではいま、みんなで集まって他愛ない馬鹿話をしたり、自分の夢や希望を語ったりできる場所がすごく必要とされていると感じていました。

それがひとりよがりな考えじゃないか確認するために、地元の人に街頭アンケートをとってみたんです。そうしたら、「集まる場、対話する場」を求める声が多くて。これからみんなでまちをつくっていくためには、やっぱりそういう場が必要なんですよね。「間違っていない」と思い、実現するために動き出しました。

中田さんは場所を探し、仲間と一緒に2か月かけて改築。プレハブとは思えないおしゃれな空間に仕上がりました。名称は、「ハイカラごはん職人工房」です。

この店は、瓦Re:KEYHOLDERを買ってくれた7万人の人のお金で建ちました。みんなの力が集まってできたものなんです。その人たちが「遊びにきたい」と思える場所にしたいとも思いました。

復興にはまだまだたくさんヒトモノカネが必要です。でも、進歩がないものに対してずっと関心を寄せ続けるのは難しいでしょう。先が気になるプロジェクトを仕掛けて、多くの人が自然な形で関われる仕組みをつくりたいと思っています。

「場がある」という強みを活かし、地元住民向けの勉強会や郷土料理のリデザインなども実施。8月には地元の米崎リンゴを使った「りんごエールりくぜんたかた」を発表し、評判を呼んでいます。

若い人が挑戦しやすい土壌をつくる

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札幌出身でありながら、陸前高田の未来を考え、自分にできることに挑戦し続けている中田さん。その根底にはどんな想いがあるのでしょうか。

陸前高田には大学や専門学校がないから、みんなある程度の年になると外へ出ちゃうんですよね。20代30代が少ないんです。でも、やっぱりその地域で生まれた人が文化や歴史を継承して、まちを盛り上げていかなくちゃいけない。

そのために必要なのは、若者が働ける場所や、チャレンジできる場所。よそものの自分たちにできるのは、色々な取り組みを試して、若い人が新しいことに挑戦しやすい土壌をつくることじゃないか、と考えています。

でも、田舎は地縁が濃い分、しがらみもつきもの。大変なことも多いと思います。

都会と田舎で大きく違うことは、「向き合う人の多さ」です。都会だと、合わない人とは一緒に仕事しなくてもいいんですよ。いくらでも代わりがいるから。こっちは絶対的な人数が少ないから、一人ひとりと向き合わないといけない。

それには、相手の話をしっかり聞くこと、自分の譲れないラインを知ること、一つひとつの仕事を丁寧にしていくことが大事です。大変だけど、そういう経験っていまの時代にとても大事なことだと思っています。

瓦礫の中から光る素材を拾いあつめるように、陸前高田というまちや人に真摯に向き合い、その力を集めて物事を形にしていく中田さん。今後の展開も楽しみです。

編集協力:東北マニュファクチュール・ストーリ

 

 

多様なコンテナのはじまり。

静岡県で海外輸出を拡大する為に、高機能な冷蔵コンテナでの取り組みが実施されたそうです。

なんと、航空輸送費の最高10分の1程度で船便は輸出が可能だそうです。しかし、問題は日数。航空輸送より遙かに日時が掛かってしまうために農産物の鮮度を保つことが非常に難しいとのこと。そこで開発、実施にいたったのが高機能で作られた冷蔵コンテナ。現地につくまでにかなりの日数がかかるそうですが、大概の作物が鮮度良く輸出出来たとの事です。これから更に開発が進む事でしょうが、日本の輸出、経済まで担ってくれる静岡県。大いに期待していおります!

 

 

 

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静岡県産農産品の海外輸出を拡大するため、静岡県が鮮度保持機能の高い高規格冷蔵コンテナと船便を活用する取り組みを本格化させている。2月には清水港からシンガポール港に向けた県産農産品の輸送実験を実施。関係者からは「期待以上の結果」と高評価を得ており、実用化への期待が高まっている。
 県港湾企画課によると、清水港からシンガポール港までの船便での輸送費は航空便の6分の1から10分の1程度で済む。しかし、航空便は数日で荷物が届くのに対し、船便は貨物の搬入から販売まで20日以上かかるため、農産品の鮮度を保つのが課題。県は高規格冷蔵コンテナが課題克服の鍵になるとみて活用策を探っている。
 実験では、従来のコンテナより鮮度維持機能の高い新タイプのコンテナを使い、初めて清水港から農産品を輸送した。輸送したのはイチゴやメロン、温州ミカン、トマト、柿、ワサビなど県内主要産品18品目。JA静岡経済連が荷主になり、輸送費は県が負担した。
 2月9日に農産品を搬入・計測し、15~26日に清水港からシンガポール港まで海上輸送。28日に県農林技術研究所が輸送した品の鮮度を調べた結果、14品目が「全量が販売可能」と判断された。サツマイモなど4品目はカビが生えるなどして水準に届かなかった。
 現地の卸業者にみてもらったところ、特にセロリやネギ、レタスなどの葉物野菜について「鮮度は期待以上だった」との声が寄せられ、評判が良かったという。同課の担当者は「海上輸送の安定性はある程度、確認できた。今後は販路の確保を支援していきたい」と話した。

 

 


 

特別な桜。

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東日本大震災で海水に浸かりながらも生き残った6本の桜。

当時の生徒さんや、歴代の科学部員さんが仮設校舎のプレハブ敷地で大切に培養して育てた桜が新校舎に移植されたそうです。

沢山の方々の、沢山の思いを受け継いで来年綺麗に咲くことでしょうね。

楽しみです。

 

津波に耐えた桜を宮城農高生が新校舎に移植



 東日本大震災津波で旧校舎が全壊し、宮城県名取市内陸部に新校舎が整備された宮城農高(生徒465人)で2日、桜の移植活動があった。旧校舎で海水に漬かりながら生き残った6本の命をつなごうと、当時の生徒が組織を培養。歴代の科学部員らが、3月まで使っていたプレハブ仮設校舎の敷地などで育てていた。
 科学部員ら約30人が6班に分かれ、完成したばかりの新校舎の周りにオオシマザクラやカンザン、フゲンゾウの3種42本を移植した。中には高さ約4メートルに成長した木もあり、生徒らは懸命に宮農復興のシンボルを植え付けた。
 科学部の部長で3年本郷美(み)桜(お)さん(17)は「今日植えた42本を皆さんの希望の桜にしたい」と話した。
 宮農は1977年に仙台市から移転した際、記念に約20本の桜を植え、市民らに親しまれてきた。震災後も3種6本が生き残り、幹が傷ついた状態で花を咲かせて関係者を鼓舞。遺伝子を残すため培養や接ぎ木をして、宮農や市観光物産協会が仮設校舎近くなどに植えていた。

 

www.kahoku.co.jp

被災者や復興工事作業員を支えた呑のん兵衛べえ横丁が閉店

釜石市の方々や復興に携わる方々の心を支えてきた、呑ん兵衛横丁が閉店を迎えました。

震災にて崩壊全壊したあと、仮設プレハブにて営業を続けてこられました。

震災から7年間、きっと沢山の地元の方々、復興工事に携わる方々の

いこいの場だったことでしょう。

最後まで営業を続けていてくれた6店舗のお店さんも

早く店の再建が進むことを祈ります!

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全壊後は仮設で営業「呑ん兵衛横丁」60年で幕

東日本大震災津波で全壊し、仮設のプレハブで営業を続けてきた岩手県釜石市の飲み屋街「呑のん兵衛べえ横丁」の6店が31日、仮設の退去期限を迎え、閉店した。

 最盛期に最大30軒以上ひしめいていた横丁が約60年の歴史に幕を閉じた。

 横丁は、1950年代後半、戦争で夫を失った女性たちが市中心部に軒を連ねたのが始まり。釜石製鉄所の従業員らの憩いの場としてにぎわった。2011年3月の震災後は、公園にできた仮設商店街「釜石はまゆり飲食店街」に移り、同年12月に15店で再起した。

 その後、店主が亡くなって廃業したり、別の場所に店を再建したりするケースが増え、はまゆり飲食店街の営業期限と定められた31日まで店を開けていたのは6店舗になっていた。

 www.yomiuri.co.jp