プレハブ小屋

企業遺産 日本電産、創業魂伝える「プレハブ小屋」

2017/9/14 6:30

 56件に及ぶ買収で右肩上がりの成長を続ける日本電産京都市南区の本社ビルの1階には、創業時に働いていたプレハブ小屋を移設・展示してある。1973年に永守重信(現会長兼社長)と後輩の小部博志(現副会長)ら4人で立ち上げた同社も今や連結従業員10万人、売上高1兆2千億円。巨大企業となっても創業精神は忘れない。

■永守氏の大番頭が語り部

 「金もない、知名度もない、売るものもない、ないないづくしだった」。カリスマ創業者、永守の右腕で日本電産の「大番頭」をつとめてきた小部は創業小屋を前にこう振り返る。

 日本電産は相次ぎ企業を買収し、グループには様々な会社から社員が集まる。最近では東芝やシャープなど電機大手からの転職組も多い。かつて永守が「追いつくには倍働くしかない」と仰ぎ見た大企業だ。

創業時のプレハブ小屋の中で語る小部副会長(京都市の日本電産本社ビル)

 

創業時のプレハブ小屋の中で語る小部副会長(京都市日本電産本社ビル)

 桂工場と呼んだプレハブ小屋があったのは西京区にある桂川のほとり。当時永守は28歳、小部は24歳。9畳弱の小屋には、中古で購入したプレス機や旋盤機のほか、映写機用モーターや設計図が今も並んでいる。

 中でも目を引くのは古びた生命保険証だ。被保険者「ナガモリシゲノブ」、死亡時の支払額「4000万円」とある。「当時は担保がないと資金を借りられなかった」と永守は語る。小部は永守が銀行に差し出した担保について「何も知らされていなかった」。

 永守との出会いは18歳の時。九州から上京し、同じ下宿先に住む職業訓練大学校(現職業能力開発総合大学校)の先輩だった永守に挨拶にいくと、いきなり「子分にしてやる」。就職の時も「おまえの就職先を決めてやる」と言われた通りにメーカーに入った。「逆らったら何をされるか分からない怖さもあった。まさに義理人情の世界」と小部は笑う。

 創業は73年7月23日。前夜、永守は自宅の6畳間に小部、遠藤峰世、田辺道夫の3人を集め、決起集会を開いた。永守はろうそくをつけ、創業のともしびとした。「会社名は日本電産。永守電産でも京都電産でもない、日本を代表する世界企業になる」と宣言。「情熱、熱意、執念」「知的ハードワーキング」「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」という3大精神を分かち合った。「アパートでの光景は今でも思い出す。当時の言葉もそのまま復唱できる」(小部)

 

創業当時のプレハブ小屋の前で(写真左下が永守現会長兼社長)

創業当時のプレハブ小屋の前で(写真左下が永守現会長兼社長)

 

 小部は営業担当。昼は会社をひたすら回り、夜は帰ってきて4人で一緒にモーターを作った。「今ならブラック企業」。売る物もない中で訪問先でモーターを見つけると「貸してください」と言い、試作して品質改善を提案した。

 創業小屋には永守が海外出張に使ったカバンやパスポートも展示してある。国内は小部に任せ、永守は米国へ飛んだ。日本企業の対応は冷たかったが、米スリーエム(3M)にダビングテープ用モーターを小型化する提案が採用され、成長の契機になった。

■モーレツから「残業ゼロ」へ

 75年には亀岡工場を建設、90年代には円高で海外に相次ぎ進出。ハードディスク駆動装置(HDD)や光ディスク時代の波に乗り、国内外での積極的な買収攻勢で飛躍した。

 2003年に完成した22階建て100メートルの現本社ビルは、高さ規制の厳しい京都市内で一番高いビルだ。だが1階にある小屋は「汚いし、通常ならホールに置くのは考えられないが、創業の精神や原点がここにあることを示したい」と小部は強調する。

 永守は20年度には「残業ゼロ」を掲げ、売上高を20年度に2兆円、30年度に10兆円に高める目標にまい進する。「元日以外、364日働く社長」と豪語した永守のモーレツ主義も転換を迫られている。ただ、世界企業へと変貌しても、プレハブ小屋は創業精神を次代に伝える語り部となる。=敬称略

(京都支社 渡辺直樹

日経産業新聞 2017年9月14日付]

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21074720T10C17A9XX0000/

 

プレハブはまさに現在の日本を作った企業家達の精神の原点かもしれませんね♪